2007.12.26
横須賀の昔話
先日、借地の更新契約の打ち合わせで
お客様のお宅を訪問したときのこと。
仕事の話はあっという間に終わり、
横須賀で何十年も個人タクシーを営んできたという
おじいさんが横須賀の昔話をしてくれました。
昭和40年代の横須賀は、
文字通り米兵の町だったそうです。
今とは比べ物にならない程の米軍が在中していた当時は、
若い米兵たちの受け入れ先であったドブ板通りを
はじめとする横須賀中央周辺に、将校クラブやキャバレーが
乱立していたそうです。
今でこそ日本人の方が多く見られるドブ板通りも、
当時はそのほとんどが米兵で、日本人はほとんどいなかったとの事。
それで何が凄かったのかというと、横須賀の米兵を相手にする
ホステスの数が約6000人もいたのだとか。
今の銀座や六本木と比べても引けをとらないですよね。
話は続き、その各店舗のキャッシャーの横には大きなドラム缶が
置いてあり、店に来た客は代金をドラム缶の中へ。
そして店が終わる頃にはお札でドラム缶が一杯になったのだそうです。
そんな状態ですから、横須賀に急きょ空母が停泊なんて情報が
入ってこようものなら店のオーナーは血相を変えてタクシーに連絡、
店の女の子達の家までタクシーを飛ばし、一刻も早く女の子達を
店に集めるのに大あらわだったのだとか。
そして、米軍が佐世保に寄港するなんて時は
女の子達は一斉に羽田へ向かうのだそうです。
米兵を求めて日本中を飛び回る・・・今の日本では想像もつきません。
あの頃は本当にいい時代だったと語るおじいさんでしたが、
本当にいい時代たったんだろうなと思わせる目の輝きが印象的でした。
本当はまだまだ話は続くのですが、今日はこの辺で(笑)

お客様のお宅を訪問したときのこと。
仕事の話はあっという間に終わり、
横須賀で何十年も個人タクシーを営んできたという
おじいさんが横須賀の昔話をしてくれました。
昭和40年代の横須賀は、
文字通り米兵の町だったそうです。
今とは比べ物にならない程の米軍が在中していた当時は、
若い米兵たちの受け入れ先であったドブ板通りを
はじめとする横須賀中央周辺に、将校クラブやキャバレーが
乱立していたそうです。
今でこそ日本人の方が多く見られるドブ板通りも、
当時はそのほとんどが米兵で、日本人はほとんどいなかったとの事。
それで何が凄かったのかというと、横須賀の米兵を相手にする
ホステスの数が約6000人もいたのだとか。
今の銀座や六本木と比べても引けをとらないですよね。
話は続き、その各店舗のキャッシャーの横には大きなドラム缶が
置いてあり、店に来た客は代金をドラム缶の中へ。
そして店が終わる頃にはお札でドラム缶が一杯になったのだそうです。
そんな状態ですから、横須賀に急きょ空母が停泊なんて情報が
入ってこようものなら店のオーナーは血相を変えてタクシーに連絡、
店の女の子達の家までタクシーを飛ばし、一刻も早く女の子達を
店に集めるのに大あらわだったのだとか。
そして、米軍が佐世保に寄港するなんて時は
女の子達は一斉に羽田へ向かうのだそうです。
米兵を求めて日本中を飛び回る・・・今の日本では想像もつきません。
あの頃は本当にいい時代だったと語るおじいさんでしたが、
本当にいい時代たったんだろうなと思わせる目の輝きが印象的でした。
本当はまだまだ話は続くのですが、今日はこの辺で(笑)

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